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京都地方裁判所 昭和56年(わ)1036号 判決 1982年2月17日

主文

被告人を懲役三年に処する。

この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、京都市南区久世大藪町七三番地所在のコーポ山本一階B号室に居住する長女浅野美智子及び同女の夫浅野正一(当時五六歳)方に同居していたものであるが、同人がかねてより些細なことに激昂して右浅野美智子や被告人に暴力を振うため日頃からその言動に困惑していたところ、昭和五六年七月三〇日午後二時ころ、右自宅奥六畳間において、浅野美智子が勤務先を休んで浮気をしていると邪推して怒つた右浅野正一から電気アイロンで頭頂部を一回殴打され同人に掴みかかつたが、反対にその場に仰向けに引き倒され腹の辺りに馬乗りになられて右アイロンで更に一回前頭部を殴打されてなおも暴行を加えられそうになつたため、日頃の正一に対する憎悪、憤激の念とともに、このままでは自分も殺されてしまうと思い、正一が手に持つていた電気アイロンに接続している長さ約1.8メートルの電気コード(昭和五六年押第三一八号の一)を使用し同人の首を絞めるほかないと考え、その先端部分を右手に持ち、これを同人の頸部に素早く三回巻きつけて右側に引つ張り二分にわたつて絞頸し、同人を右側に引き倒し、一旦手を離して約一〇ないし二〇秒後このまま中途半端にしておけば結局自分が殺されてしまうことになると思い、殺意をもつて仰向けに倒れ苦しんでいる同人に対し、その頸部に巻きつけてある右電気アイロンのコードの両側を再度両手で左右に力まかせに約四、五分にわたつて引つ張つて同人の頸部を強く絞めつけ、よつて即時同所において、同人を絞頸による窒息により死亡させて殺害したものであるが、被告人の右の行為は急迫不正の侵害に対し自己の権利を防衛するため已むを得ず行つたもので、防衛の程度を超えたものである。

(証拠の標目)<省略>

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人は、被告人が、被害者浅野正一(以下単に正一という)の急迫不正の侵害行為に対し自己の生命を守るため本件犯行に出たもので、本件では、正当防衛か少なくとも過剰防衛が成立すると主張する。

そこで、右主張について検討するに、まず関係証拠によつて本件犯行及びそれに至る経緯をみると、以下の事実が認められる。

(1)被告人の長女美智子は、昭和四七年六月ころ当時タクシーの運転手をしていた正一と結婚しその後円満に暮していたが、昭和五一年一一月正一が交通事故を起しその後遺症のため働けなくなり病院通いの生活を送るようになつてから、正一は、些細なことに激昂し美智子に度々暴力を振つたり、同女の身内の者に対しても格別の理由なく「殺してやる」とか「家を焼いてしまう」などと何回となく深夜嫌がらせの電話をするなどして脅し、理不尽な金銭を要求するなど異常な言動が多くなり、神経症で精神科医の治療も受けていた。(2)被告人が、昭和五六年一月より正一夫婦と同居するようになつてから、正一のこのような異常な言動はむしろその度を増し、被告人に対しても何度も殴る蹴るの暴行を加え、特に事件直前には自宅で刃物を振り回したり、灯油をもち出して火をつけると騒ぐなどするようになり、美智子が警察、病院等へ相談に行くなど被告人や美智子は困惑の毎日を送つていた。(3)事件当日、美智子が正一に無断で病院等へ相談に出かけ、被告人は、正一と二人で居たが、午後二時ころ美智子の勤め先から電話があり、この電話で美智子が自分に無断で欠勤していることを知り、それまで気嫌の良かつた正一は急に不気嫌になり、美智子が浮気していると邪推して怒鳴り散らし、自分の短刀を捜したり美智子の服や下着を辺りに投げ捨てるなどして暴れ始めた。(4)被告人は、執り成しても正一が応じないため、やむなく正一の気が静まるのを待つて奥六畳間と中の間の間の敷居の中程に坐つてこらえていたところ、興奮した正一から突然電気アイロンで頭頂部を一回殴られ、自分の頭から血が流れているのを見て、「何すんねんな」と言いながら、傍にいた正一に掴みかかつたものの反対にその場に仰向けに引き倒され、腹の上に馬乗りになられて右電気アイロンで更に前頭部を一回殴打されたため、正一を払いのけるべく右手で正一の肩や首付近を下から突き上げるなどして抵抗しているうち、自分の左胸付近に右電気アイロンのコードが垂れ下つているのに気がつき、このままでは、正一に殺されてしまうと考え、咄嗟に右コードの先端部分を右手に持ちおおいかぶさつていた正一の首に素早く三回巻きつけ右側に力一杯引つ張ると、正一は反対方向に首を振りながら右コードを振りほどこうとしたが、被告人が力を入れて絞めたため次第に首が絞り、正一は、「グーグッ」とうめき声をあげながら被告人の右側へ崩れるようにして仰向けに倒れ、その場で歯ぎしりしながらうなつていた。(5)被告人は、コードを手に持つたまま上半身を起こすようにして一〇秒ないし二〇秒くらい正一を見ていたが、その間に正一に対する日頃の憎悪、憤激の念に正一が息を吹き返したとき結局自分が殺されてしまうとの恐ろしさも加わつて咄嗟に正一を殺してしまおうと考え、再度力を入れて両手を使つて右コードで同人が身動きしなくなるまで約四、五分にわたつて首を絞め続け同人を窒息死させた。

次に以上の認定事実に基づき考えてみると、まず正一が当初二回にわたつて電気アイロンで被告人の頭部を殴打するなどした行為が刑法三六条一項所定の急迫不正の侵害に該当することは疑う余地がない。問題は被告人の防衛意思の存否であり、特に本件では前記のとおり客観的にみる限り被告人の第一段の絞頸行為によつて正一の攻撃態勢が崩れた後被告人が第二段の絞頸行為に出て結局正一を窒息死させている点が問題となる。

そして、この点に関する検察官の所論は要するに、右第一段の絞頸行為の際はともかく右第二段の絞頸行為の際には、正一からの急迫不正の侵害は既に去つており、被告人は新たにその時点で殺意を抱いて本件犯行に及んだもので、正当防衛又は過剰防衛の成立する余地はないというにあるところ、確かに被告人の捜査官に対する供述調書中には、被告人が、倒れた正一を見ているうちに同人に対する憎悪、憤激の念にかられその息の根を止めてやろうという気持になつて、第二段の絞頸行為に及んだ旨の記載がある。

しかしながら、第一段の絞頸行為と第二段の絞頸行為との間の時間的間隔は前記のとおりわずか一〇秒ないし二〇秒にすぎず、両絞頸行為の時間を合せても約六、七分の間の出来事とみられることおよび、その行為は前に頸にかけられたコードを引くという同様な方法によるものであることから考えると、直ちに検察官が両絞頸行為を截然と分けて考えるべきであるということには左袒し得ないし、加えてこの点に符合する被告人の捜査官に対する前記供述記載そのものもやや理詰めの結果得られたものと思われ直ちにとるを得ない。むしろ被告人が公判廷で両絞頸行為を分けて考えるだけの余裕はなく自己の生命を防衛するため第二の絞頸行為に及んだと述べることには自己の刑責を軽減しようとするなどの格別の作為の節も窺えないこと、ことに、前記のとおり被告人が以前に何回も正一から暴行を加えられた経験があつて、第一段の絞頸行為終了後も正一に対する警戒の念を解いていなかつたことなどの点を併せ考えると、本件で両絞頸行為を分離して考えるのは相当でなく、事態を全体として観察しその正当防衛又は過剰防衛の成否を判断すべきものである。

ところでこの観点から本件をみると、前認定のような本件犯行に至るまでの諸経過のほか、被告人がこれまで一般の社会人として格別の問題も起さず過ごしてきてむしろ温厚な性格の持ち主とみられることなどに徴すると、被告人が正一に対し殊更な憎悪、憤激の念だけに基づく積極的な加害意思をもつて本件犯行に及んだものではなく、むしろ防衛の意思をもつて行なつたものと認めるのが相当である。

ただ、前認定のとおり被告人が正一から受けた侵害行為の態様に照らしてみると、被告人が正一の生命を奪うまでに至つた行為は防衛上やむを得ないものであつたといえないものというほかはないが、刑法三六条二項が規定する過剰防衛の要件を充足するものと認められ、弁護人の前記主張はその限度で理由がある。

(法令の適用)<省略>

(西村清治 小澤一郎 塩見久喜)

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